藤岡さんと中ノ鼻灯台の思い出
野賀の岬に立つ白くて小さな灯台、中ノ鼻灯台。明治27年から目の前の海を行き交う船の航海の安全を見守って来ました。
明治27年といえば、約130年前。人の一生より長い時間をかけてこの場所で海を見つめてきた灯台には、どんな記憶が眠っているのでしょうか。
「子供のころ、中ノ鼻灯台の中に入って遊んでいた」という、沖浦地区の藤岡政治(ふじおかまさはる)さん。中ノ鼻灯台の周りが家の畑で、母親に連れられて手伝いに行ったこと、その時に弟と灯台の中に入って遊んでは、叱られたこと。2020年の秋にご自宅へ伺ってから1年間、直接お会いしたり、手紙でのやりとりを通じて、昭和14〜20年頃の思い出を聞かせていただきました。
今回ご紹介するのは、主に2021年10月にご自宅へ伺ったときに、昔の写真などを見ながら聞かせていただいたお話です。
「あー来た来た!」って騒いで、そしたら母親に怒られてね
昭和30年頃の、沖浦から木江へ向かう道。右上の山が藤岡さんの畑(現清風館)。右の端に小さく灯台も写っている。
これが今清風館があるとこやね。ここがうちの畑で、上もうちの畑だった。子供の時はこの道路がなかったけえ、山を通ってね、畑へ行った。僕らが子供の時にはどうしても手が足りないから母親によく連れられてね。灯台の思い出はね、私ら遊ぶところがなかったからねえ、あそこ行っちゃあ遊びよったわけ。
−灯台の中で何して遊ぶんですか?
いやあ何するこたあない回ってみたりね。そいであそこのねえ、大下の灯台から船が来るのがわかるわけよ。そしたらね、人が上がって来るのよね。ほんでそれを見るんよ。係の人も「面白いか」言うから「はい」ってね。灯台の灯が回るのが不思議でならんのよ僕ら子どものとき。ね、あんたら知っとる?灯台の灯が回るのか、ガラスが回るのか、わからんでしょ?
それが説明聞いてもわからないのよ。そして、係の人もよくわからないのよ(笑)不思議なかった。だからこれを、僕この前聞いて書いたんだけどね。この炭酸カルシウムかな。こういう仕組みも、見えるわけね。カーバイトの原石を水につけたら蒸発してガスが発生する。それが不思議なかった。ストンと下がるでしょ。で、少なくなったらまた補給するから上がるでしょ。あれと同じ原理。
藤岡さんのお手紙より、カーバイトでガスが発生する仕組み
−それが灯台の中にあったんですか?
うんここの中でやってるのが見えるわけよ。それでこれをする人が大下から船で来るのがみえるわけ。下に伝馬で来てから。カーバイトとかを負って上がるわけ。だから僕らも面白いわいね。こまい時だから好奇心あるでしょ。「これは何するんだろうか」言うてね。あんたらでも、わからんこと何しよるんかなって思うことあるでしょ。それと一緒。
−灯台の掃除って何人ぐらいで来よったかわかります?
3人よ、3人でやりよった。3人がこれ負うてくるんよ。カーバイトを背負って、大下の灯台が済んだら舟で来よるのがわかるわけよ。子供じゃけえね、「あー来た来た!」って騒いで、そしたら母親に怒られてね。
父親は船に乗ってね、で母親は子供連れて畑へ行った。
畑は清風館の上全部がうちの畑だった。今でいう2反ぐらいあったの。じゃけえ芋や麦がものすごいできるわけよ。負うてから船積むのにね、1日や2日じゃ済まないの。母親と2人で、僕は学校の高学年だけど、子どもら芋穫りゃせんわあね(笑)見よるだけ、芋集めるだけでね、そじゃけんこれだけの畑作ってもね、運ぶのが1日じゃ済まん。3日も4日もかかる。
それでその後、芋が済んだら麦植えるでしょう。麦も、稲だったら藁があるんですよ。麦の藁はあまり利用価値がないからね、畑の上で全部こいで、穂だけにしてね、それを袋に詰めて負うてくる。で、後の残ったものは芋植えるところに寄せて、畝を作って、それが肥料になる。あとはアマモね。アマモと藁と一緒において芋をおいてね。アマモは今の木江中学校のあたり、あの辺がいっぱいあったのよ。竹の竿を2本こうしてくくってね、舟に乗ってアマモを押さえて、キリキリっと回して。流れてくるアマモもあるけれど、切ったアマモの方が肥料として効くわけ。生じゃけえね。流れるのはあまり、長けて栄養がないのが流れる。だけどそれも拾って、一緒にしてね。ほんで半年くらい塩抜きをして。半年くらい置いとったら雨が降ったりして塩が抜ける。それを畑に背負子で運ぶ。
しんどかったんよ。家族だけでやるからね。それぞれの家でそれぞれの畑あるでしょ。全部子供の手が必要になるわけ。あの当時はね、みな家族でやりよった。
麦はだいたい4月下旬から5月ごろ収穫する。それが済んで6月の下旬ごろの雨が降ったあがりに芋を植えるわけ。秋に芋掘るじゃろ、そしたら11月に麦をまく、麦をまいたらね、子供をみな連れてきて麦踏みするの。麦が小さいうちから踏むわけよ。そしたら根を張る、それもね、11月か12月と1月入ってからの2回踏む。そしたら立っても風に倒れん。そう言う意味で麦踏みをするわけよ。
来てる服は、皆モンペよ。足は皆ぞうりじゃあ。僕らが子供の時には学校ぞうりで行きよったんで。昭和17年じゃろ、僕ら小学校の高学年のときに皆ぞうりじゃもん。じゃけえ母親は毎日ぞうり作りじゃった。靴なんかない、それではいて行って運動したり遊ぶじゃろ、そしたら1日ではあ、だめになる。ほじゃけえ毎晩ぞうり作り。妹なんか靴を買ったら喜んでのう、じゃからこれは写真写すけん靴はいとるの。
藁はこの辺りないから親類からもらうわけ、大崎の。ここらには米の作る農地が少ないから。大崎にはようけあるからね。じゃけえもらってきては、藁も水を吹いて、たたくわけよ。それでやわらかくして、ぞうり作りやすいようにする。縄をつくって、足へ縄を1本2本、、、7本して、その間に藁を入れていく。はた織りと一緒。通して、しめて。ほじゃけえ僕らよう藁を打たされた。「藁打っとけよ」言うてのう、毎日使うんじゃけえ。土間で作ってた。
藤岡さんの父親の船の、たで船風景の様子
うちは父親が船乗りよったんです。これが兄でこれが父でね。それで同級生がね、家で写真しよった。その人が細いマッチ箱みたいなね、カメラで、並んだ写真をとってくれたんです。船があの当時は木造船だから、やっぱり長い航海したら、船の底に虫が入る。で、たで船言うて、(船底を)燃やして、虫を殺して、ほんでペンキ塗る。これは、摩利支天があるでしょ、その前埋め立てしとる。あそこはまだ湾だった。それで潮が引いたらずうーーっとね、時々貝を掘りよったの。
戦中じゃけえね、父親は船に乗ってね、で母親は子供連れて畑へ行った。船員さんが1人(写真では)隠れとんのよね。親も大変だったろうと思う。父親は船乗っとるんじゃけえ、母親にみんなまかせるでしょ。
−畑には妹さんたちも一緒に行ってたんですか
そうそう、これはね、畑に行くのにね、船で行く場合があるの。麦とか芋とか作物ができたら船で運ぶんじゃけえ。灯台の下へ、今海水浴ができてるあそこに船つけて、灯台の向こうっ側から背負子負って、それで芋とか麦を、船で運ぶの。その道がもうない。だから僕ら畑手伝いに行っても、遊ぶ方が多かった(笑)灯台の中で遊んでいた。
だからこれ(息子さんたちの写真)子供が遊びよる中に入って。うちの畑に子供らを連れて行くわけよ。こうやって登って遊ぶんよ。
灯台に登って遊ぶ藤岡さんの息子さんたちの写真
僕らもあんたら生まれてない頃、15歳で兵隊に行ったんだもの。
−灯台も昔は灰色に塗られていたんですよね。
そうそうそう。戦時中は飛行機から見えるでしょ。そじゃけえ、うちらの昔の家でもね、白壁の家でもね、塗りよったんですよ。うちの昔の写真があるんじゃがね。昔はね、これね、よもぎを煮た分をね、いわゆる野草の青汁を塗れえて。よもぎとか野草の煮たものを、青い汁が出るでしょ。それを塗らされたの。敵からね、白いものは見えるから。だから昔は灯台もね、真っ白な灯台はなかったんよ。他のところは知らんよ。でもここらの灯台は全部塗られた。昔は戦時中はいろんなことをさせられたのよ。
—大崎上島も空襲の恐れはあったんですか?
いやこの辺はね、僕らが19年に海軍行ったからその後は知らないけど、その前はなかった。僕が見たのはね、呉の鎮守府におるときに、大空襲でグラマンが何百機編隊の中で、爆発したら破片が飛行機の翼とかによくあたる、そしたらその瞬間にガソリンに火がついて火を吹いて落ちる。それを見よったの。火が落ちるのを見よったら、脱出するの、落下傘で、兵隊が降りてくる。
−以前話されていた、飛行機が神峰山の山肌に衝突した時の資料が出てきました。
それはね、昭和18年だろ思う。僕らね、小学校の高等1年のときに中野の学校に行ったのよお参りにね。先生が級長と副級長と連れていって。東野小、南小、木江それぞれの学校から来たんよ。それで戦死した人の家族がお墓をつくった。(展望台から)ちょっと下がったところにあったじゃろ。連隊を組んでたんよ。昔の「赤とんぼ」言うんかの。あんたら知らんかの。赤とんぼ言うたらね、翼が二つ上と下にあって、それを赤とんぼ言いよったんよ。ちょうどねえ、その日は霧がかかって視界も悪かったんよね。それで練習に来て、帰りしなに西から来て、ぶつかったらしい。それで町が慰霊してね、家族がお墓をつくった。
兄が山口高専、今の山口大学を出て大分商業で英語と商業簿記の先生だった。戦死したのね、通訳でマニラへ行って、戦死したの。僕らも昔ね、あんたら生まれてない頃、昭和19年に15歳で兵隊に行ったんだもの。15歳よ。大竹の海兵団にね。これが呉の鎮守府に帰ってきて、16歳よね。大竹の海兵団から横須賀の学校に行ってるの。大空襲で横須賀もやられて、私らの戦友も戦死した。僕は呉の鎮守府に20年の5月に帰ってきた時にも、7月の大空襲で呉がやられて、市内が半分やられとんのよ、一晩の間にね。それで僕の戦友も目の前で死んだんです。そういう思い出もあるしね。
そして飛行機もね、各町村でそれぞれ1機ずつ、寄付したの。だから飛行機にも「大崎南村号」いうてね、書いてあった。運動場から見えよった。字が見えるの。それが低空飛行で来てね。今でいうゼロ戦が。陸軍に寄付したんです。あの当時は強制的でね、町村で寄付していうてね、小さい村だからそんなにお金がないでしょ。だからそれぞれ一戸ずつその家に相応した金額を寄付したんです。
海軍時代の藤岡さんの写真を見せていただく
赤紙が来たら、「おめでとうございます」って皆言ってくれる。ほいで日の丸の旗へ「祈・武運長久」って書いて皆が寄せ書きしてくれる。それで行くわけ。僕らも兵隊行くときにはね、うちから2人行っとんじゃがね、あいさつして、あの当時は桟橋ないから全部船で行くのよね。見送る人が手振ってね、船が沖で2回周るの。でこっちの南側はね、竹原に着かんの。すぐ忠海で須波へ行って、尾道。ほいで向こうは中央丸とかは竹原。出征兵士を見送る人はね、船がこう、沖で2回くらい周るのよ。それを見送ってくれるの。戦地行くんじゃけえね、やっぱり亡くなったりする方がおるでしょう。だから最後の見送りよね。
うちらの兄が通訳で特殊な役だからね、飛行機でマニラへ行ったの、船でなしに。昭和19年の7月に行きよったんよねマニラに。7月に行って11月に戦死。そのとき僕は10月に海軍に入ったから、手紙が父親から来て。兄じゃけえ、よう出来よった兄じゃけえ、悲しいわいね。泣きよったらね、頭にめちゃくちゃに怒られてね、「貴様、なに泣きよるんじゃ!」「兄が戦死したんです」言うたら、「戦争しよるんじゃ、1人や2人死ぬのは当たり前だろうが」って怒られてね。まあいろんなことがあったがね。長く生きてるといろんなこと経験するわいの、皆に助けられて来たの、僕?昭和4年生まれ。今92歳。
僕ら92歳、僕らが最後よ
僕も趣味でね、今でも短歌やら川柳やら書いて、中国新聞へ送るんです。面白いからね。
−今も藤岡さんは毎日書を書くんですか(机の上には筆や炭といった書道の道具も乗っている)
いやあ、時々書くんよ。暇があればね。時間に余裕があれば。僕も昼から遊びに行くからね。碁をしに行ったりね。碁が好きなんよ。まあ、楽しみは碁を打つことだけ。そいでまあ、新聞へ投稿したり。一人じゃけえ家事一切も自分でするでしょ。自分で洗濯したり、自分で掃除したり。皆自分でするんよ。で裏で野菜も作ったり。だから忙しいんですよ(笑)
色んなこと経験してきました。本当に、まあ長く生きた。戦争体験者いうたら僕らぐらいしかおるまあ、もう。僕ら92歳、僕らが最後よ。昭和19年いうたらね。昭和20年4月に卒業して海兵団に入った人がおるかもわからんけど、僕らが最後よね。だから人の戦死も見たり、色んなこと経験したの僕らで終いじゃけえね。あんたらも、沖浦にこういう人がおったのう思うて、覚えててください。
「懐かしいんだ。そじゃけん、昔のまんま海は」
藤岡さんは、このお話をお聞きした5ヶ月後の2022年3月に、永眠されました。
2020年秋の中ノ鼻灯台一般公開の日、実際に灯台の足元に立って、畑から海へ降りていく道があったという場所について、藤岡さんに教えていただいたとき、海を眺めながら語られた言葉があります。
「懐かしいんだ。そじゃけん、昔のまんま海は」
そのとき藤岡さんの心に浮かんでいた、80年前の少年時代に畑から見ていた海。時間を巻き戻してその海を見に行くことはできないけれど、一緒に並んで「昔のまんま」の海を眺めることで、藤岡さんと灯台だけが知っている思い出に少しだけ触れられたような気がしました。
藤岡さん、ありがとうございました。
今回、藤岡さんのご家族の方のご協力をいただき、記事を掲載させていただきました。
聞き手 大崎上島町観光協会
編集 てるい ひろえ
写真 Kazuhiro Sorioka
中ノ鼻灯台についてはこちら